なぜ考えないのだろう

今の若いひととやりとりをしていると、すぐにグーグルで検索をして、ここにありましたという回答をしてくる人が多い。たしかに、グーグルが出してくる答えには、近しい答えがあるのかもしれないが、調べて終りでは、なにも考えていないに等しい。ちょっとつっこまれると考えていないと、その課題にどう応えるかすら説明ができないし、質問した側に、それは考えてくださいというお粗末な状態になる。そもそも何を依頼をしたかったのか、こちらが分からなくなるのである。

考えないで答えがグーグルにあると思っている人を増やしてしまっているのが、今の教育なのか。

問題の定義ができていないから、似たような課題を探してきて、解決したような気になっているだけであり、それでは、あまりに短絡すぎるだろう。

そもそも何が問題なのかの定義も曖昧のまま、ひたすら検索をしたところで、得られる答えはたかだか知れていよう。もっとどこに狙いがあり、それを実現するには、複数の課題があり、そのプロセスでは、こういうことが起こりうると予測をしながら、やっとひかりが見えてきたなという経験を、なんというか経験してきてないのであろう。

結論からいえば、グーグルに答えはない。あなたの頭の思考プロセスの結果から、答えが導かれるのである。考えようとしないから、問題もその答えも見つからないわけである。

もっと考える時間を取って、何が問題なのかをあぶり出す訓練を、若い頃に行うべきだと思う。その思考プロセスを資料にまとめて、人に説明をするという訓練が必要だ。これを短時間でできることが、生きるうえで必須の能力の1つとすら思えるが、このような訓練をしてきたスタッフに、なかなか出会えない。目と手があれば可能な単純な労働作業であれば、月3万円もあれば雇えるのである。何を持ってあなたの価値だというのか、それを提供できなければ、アジアにでも移住してこの金額で雇われるよりないのではなかろうか。

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