Que Sera, Sera,
Whatever will be, will be
The future’s not ours, to see
休日に、考えたこと。
少し前に、カードのCMで、娘と一緒に父親が、キャンプに繰り出す。キャンプする火を見つめながら、娘が、父に、お父さんの夢はなにと尋ねるCMがあった。いろんな人が、夢を形にとはいうけれど、一生懸命に頑張ってみたところで、必ずしも、そうなるわけではないという事実がある。
一生懸命になる(なれる)のは、自分のココロの中で、自分として附に落ちている状態があって、それにしたがって対応しているから。自分で頑張ったところで、自画自賛、知れている。社会のなか、人との関わりのなかで、見える何かだろうか。
世の中、どんどん変わっていく。かたくなに頑張り続けるのは、正しくもあり、正しくもない。
日々の変化、変化に合わせられるココロを使い方をマスターすることのほうが、いまの時代に必要。変われる自分。変われる生活。変われる会社。変われる社会。
できるだけ変わらない、いまのままでいい日本があった。変わろうかな、でも変われないんだのあきらめたの日本もあった。そして、もう変わるんだ、いや変えないといけないんだというところの日本も感じる。でも駄目だったになる可能性も残しつつだけど。
変わっていく自分を、あいつは背筋がピンとしてねえというかもしれないが、ひととの関わりのなかの話。逆に、それは、あいつか変わらないだけだろと。どう思われようと。
私たちは、みないまをいき、未来を予測する。ときに夢想家になって。ただ、だれひとりとして、未来経験はできない(当たり前)。いまの時代にあっては、過去の観念に囚われないこと、そうした場所、人、社会に飛び込んでいかないといけない。あなたが正しいと思われている、そのやりかたを、斜めや、上やら、横やら、真下からジロジロと見つめてみて、それって本当かと疑ってみる力が必要だ。
なにかに囚われてないだろうか、固定観念に縛られてないかと疑うこと。過去の成功体験がある会社ほど、過去の成功にこだわりつづける人は、気づかないことがあるのかもしれない。正解はないのだということを。正解と思う自分は、一瞬後には、不正解。過去の成功は、そのまま未来への成功への約束とはならない。じつは次の一歩に対して、どうも邪魔をしているのではないか。最近、社会で活躍をしている人は、とてもしなやか、みずから主体となって、相手との関わりかたが上手だなと感じる。
この日本に産まれてきたこと、真っ白なキャンバスの上に自由にデザインを描くことができるチャンスがある。1億2千万人しかいない日本人。世界のほんの2%程度(世界人口72億人)。外国から見れば、日本って、アジアの端っこの小国でしょと。
世界経済3位国(先人のお陰があり)に生まれ、自由な人生を送ることができる機会を与えられていますが、(それだけでもかなり成功しているとも言える)。ただ、過去の経験則は、そのまま適用できない時代です。
こだわり続けること、スパっと辞めて、次に向かうこと、その両極端のなかで自分自身の心を揺らがせたほうがいい。きっと。揺らがせてみて、その過程から、産み出せるなにかを感じなければ。
じぶんの気持ちが解放される瞬間、すーと流れる自然な気持ちで、日々向き合うこと。逆説的だけど、なにがなんでもと、すごーく頑張ることと、頑張らなくても、どうせ、世の中、なるようにしかならないからと思うことの境界、はざまに居続けること。
ということで、お休み中、なにかあらわしてみようと、書いてみたものの、散文となり。
かなり前に、ブログでもしなくちゃと思って初めたが、たいして書くことなく、数日で辞めてしまった、恥ずかしいブログでも晒してみます。→ http://broadbandjapan.blogspot.jp/
タイムスリップした自分を発見し、昔のアルバムを見つけてしまった感じというか、あの頃より、自分の心をゆらがしているだろうか、人や社会との関わりのなかで、よりよい自分を見つけられているだろうかと、最後に自問。
わたしの夢は、、、、、です。